私たちはプロテスタントのキリスト教会です

東京フリー・メソジスト教団

宗教法人「東京フリー・メソジスト教団」沿革・信仰箇条

前文

この教団は、戦後日本の再興期1950年1月に再来日した故エバ・B・ミリカン師のビジョンと働きに端を発している。当初、同師は既成のフリー・メソジスト教会に協力するつもりであったが、主の導きにより、東京の荻窪の自宅において英語バイブル・クラス、そして、1951年9月4日からは礼拝が始められた。高校生を中心に多くの者が集まったために広い場所が必要となり、導かれたのが、小金井の地である。1953年9月27日に教会堂を献堂して、東京都の西地区での宣教がスタートした。その後、桜ヶ丘、昭島、八王子、青梅、南平、守谷(茨城県)、川越(埼玉県)、南大沢に教会が建てあげられ、宣教師も台湾、タイ(中央タイ、バンコク)、ブラジル、米国カリフォルニア州南部、タイ(チェンマイ)へと送り出して来た。
組織的には創立当初日本自由メソヂスト教団に属したが、信仰の理解と実践に疑問を抱き、数年後離脱し、単立教会(宗教法人「フリー・メソヂスト小金井教会」)として歩んできた。同教団の多数の教会が新教団「日本フリー・メソジスト教団」として、それまでの課題に決別して再出発したことを契機に1990年代にその教団と当教団の前身の群れとの合流問題が検討されたが、2001年2月に独自に進んで行くことを決議した。同時期に大型宗教法人になる必要が生じ、宗教法人の名称も宗教法人「東京フリー・メソジスト教会」と変更し、規則・細則・規定ならびに制度を整えて来た。その中で一つの宗教法人で運営して行く困難に直面し、包括宗教法人になることを目指すことになった。その過程の中で桜ヶ丘教会が2007年6月に宗教法人「東京フリー・メソジスト桜ヶ丘キリスト教会」として認証されたのを契機に教団組織を整えることが急務となった。包括宗教法人化を目指して、2008年2月17日包括宗教団体(非宗教法人)「東京フリー・メソジスト教団」が発足した。
信仰的には、一貫してフリー・メソジストの信仰、すなわち、アルミニアン・ウェスレー主義の伝統に立つ福音主義者として、私たちに伝えられた教理とクリスチャン生活の原則を賢明に保持し、また後世に伝え、世界宣教によって世界中の人々の間でキリストの御国が発展するため、また、キリストの教会の他の教派と一層有効な協力をして行くために、ここに北米フリー・メソジスト教団に倣って次のような信仰箇条を制定する。
2009年2月15日

 

信仰箇条

1.聖なる三位一体

第1条 すべてのものの創造者、保持者である唯一の生けるまことの神が存在する。この神の一体性には、三つの人格がある。すなわち、父・子・聖霊である。これらの三位格は、永遠性、神性、目的において一つであり、無限の能力と知恵と慈愛とは限りなく続く。

2.子なる神

受 肉

第2条 人間を神と和解させるために、神ご自身が人となられた。子なる神は聖霊によって身ごもり、処女マリヤより生まれ、神性と人性とを一つに結合された。ナザレのイエスは肉体をとられた神であり、まことの神であり、まことの人であられた。彼は私たちを救うために来られた。神の子は私たちのために苦しみ、十字架につけられ、死んで葬られた。彼は私たちの罪と罪過のために、何の汚れもないいけにえとして、ご自身のいのちをささげられた。彼が私たちの救い主であり、神と人との唯一の完全な仲保者であられることを、私たちは感謝して受け入れる。

復活と昇天

第3条 イエス・キリストは勝利のうちに死より復活された。彼の復活体は、人間的限界によって束縛されず、より栄光に満ちたものとなった。このからだで彼は、天に昇られた。彼は、高く上げられた主として父なる神の右に座し、そこで彼のすべての敵が完全に服従させられるまで、私たちのためにとりなしておられる。彼は、すべての人をさばくために戻って来られる。その時すべての膝はかがめられ、すべての舌は、父なる神に栄光を帰して、イエス・キリストは主であることを告白する。

3.聖 霊

人 格

第4条 聖霊は三位一体の第三の人格であられる。聖霊は父と子より出、父なる神と子なる神と一体であり、その神性、尊厳および権能は神と等しく、永遠の神であられる。聖霊は、創造において、いのちを与えることにおいて、教会において力強く働かれる神であられる。イエス・キリストの受肉と働きとは、聖霊によってなし遂げられた。聖霊は今も、子なる神を啓示し、説き明かし、その栄光を表わしておられる。

救いにおける働き

第5条 聖霊は、父なる神によって計画され、子なる神の死、その復活および昇天によって、提供された救いを実際に執行される。聖霊は、私たちの認罪、新生、聖化および、栄化のために、効果的な働きをなされるお方である。聖霊は、常に臨在される主ご自身であり、信仰者に内在し、確信を与え、力を与えられるお方である。

教会との関係

第6条 聖霊は、父なる神と子なる神とによって、教会に注がれている。聖霊は、教会のいのちであり、また証しする力であられる。聖霊は、神の愛を授け、また信仰者の内にイエス・キリストの主権を確立させ、その結果、信仰者の言葉と行いによる奉仕の賜物が教会を益し、建て上げ、成長させる。この世との関係においては、聖霊は、真理の御霊であり、神の言葉を用いられる。

聖 書

4.権 威

第7条 聖書は、聖霊によって比類なく霊感された神の書かれた神の言葉である。聖霊は生ける言葉であるイエス・キリストについて誤りなく証しをする。初代教会ならびにそれに続く教会会議によって証しされたように信頼するに足る神の啓示の記録であり、すべてそこに証言されているものは、真実である。聖書は、忠実に保存されて来ており、また人の経験に照らしても、真理であることが証明され得る。
 聖書は、神に動かされ、その時代の言語と文学形式に基づいて書いた記者たちによってもたらされた。神は、聖霊の照明によって、このみ言葉を通して、各時代と各文化の人々に語り続けられる。
 聖書は、人生のすべてに権威をもつ。聖書は、神、神の創造、神の民、神の唯一のみ子および全人類の結末に関する真理を教える。また、聖書は救いの道と信仰の生活について教える。聖書に見出されず、また、これによって証明されないものは、信仰の条項または、救いに必要なものとされてはならない。

5.旧約聖書の権威

第8条 旧約聖書は、新約聖書に相反しない。旧新約聖書は、キリストによる神の救いの証言をし、神の民に関する神のみ旨について語る。古代の儀式、祭儀に関する律法や、イスラエルの民のための市民法は、必ずしも今日のクリスチャンを拘束するものではない。しかし、イエスの模範にならい、私たちは旧約聖書の道徳的戒めを守るべきである。
旧約聖書の書名は次のとおりである。
創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、士師記、ルツ記、サムエル記第一、サムエル記第二、列王記第一、列王記第二、歴代誌第一、歴代誌第二、エズラ記、ネヘミヤ記、エステル記、ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌、イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、ゼパニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書。

6. 新約聖書

第9条 新約聖書は、旧約聖書を成就し、それを解釈している。それは、イエス・キリストおよび聖霊による神の啓示の記録である。新約聖書は、人間、罪、その救い、この世とその結末に関する神の最終的み言葉である、
新約聖書の書名は、次のとおりである。
マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書、使徒の働き、ローマ人への手紙、コリント人への手紙第一、コリント人への手紙第二、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロニケ人への手紙第一、テサロニケ人への手紙第二、テモテへの手紙第一、テモテへの手紙第二、テトスへの手紙、ピレモンへの手紙、ヘブル人への手紙、ヤコブの手紙、ペテロの手紙第一、ペテロの手紙第二、ヨハネの手紙第一、ヨハネの手紙第二、ヨハネの手紙第三、ユダの手紙、ヨハネの黙示録。

人 間

7.自由な道徳的人格

第10条 神は、人間をご自身のかたちに似たものとして、罪なきもの、また善と悪、正義と不義とを選択する道徳的な自由と責任を持つ者として創造された。アダムの罪のゆえに、アダムの子孫である人間は、その本性において腐敗し、生まれながらにして罪を犯す性向を有している。人間は、自分自身の力とわざによって、神との正しい関係を回復し、また永遠の救いを得ることは不可能である。全能なる神は、三位一体のすべての権能を働かせて、人間が、イエス・キリストを救い主また主と信じる信仰によって、その恩恵に応答することができるようにして下さる。神の恵みと助けによって人々は自由意志を働かせて良いわざを行うことができる。

8.生活と愛の律法

第11条 人間のすべての生活に関する律法は、個人的なものであれ、社会的なものであれ、神の二つの律法に表現されている。すなわち、それは、心を尽くして、主なる神を愛し、また自分を愛するように、あなたの隣人を愛することである。これらの戒めは、神との関係において、また対人関係、対社会関係において、人間にとって、何が最善であるかを啓示している。これらは、個人的および社会的行動における、人間の義務についての原則を示している。この律法は、神が唯一の主権者であられることを認めている。人間はすべて、神により、神のかたちに似せて創造された人間として、性・人種または皮膚の色にかかわらず、個人的、社会的、政治的行動において、神に絶対に服従しなければならない。人間は、すべての人間が、この道徳法の中にある権利を所有し行使する時、各自の人格、権利および最上の幸福を尊重するよう努力しなければならない。

9.善い行い

第12条 善い行いはイエス・キリストにある信仰の実である。しかし、行いは、私たちの罪と、神の審きから、私たちを救うことはできない。敬虔と謙遜とをもってなされた私たちの善い行いは、クリスチャンの信仰と愛との表現として、神に受け入れられ、また喜ばれるものである。しかしながら、善い行いによって、神の恵みを得ることはできない。

救 い

10.キリストのいけにえ

第13条 キリストは全世界の罪のために一度限り、唯一の完全ないけにえとして、ささげられた。罪のための他の贖いは必要ではない。他の何ものも罪を贖うことはできない。

11.キリストにある新しいいのち

第14条 新しいいのちと神との正しい関係は、イエス・キリストにおける神の贖いのわざによって可能とされた。神は、聖霊によって新しいいのちを与え、また私たちが悔い改め、私たちの信仰がその恩恵に応える時、神との交わりに入れられる。義認・新生・子とされることは、新しいいのちに入り、またそこにとどまることを示している。

義 認

第15条 義認とは、イエス・キリストにあって新しい関係に入れられた私たちが、実際に義なるものとみなされ、私たちの咎と刑罰とから解放されることを強調する法的用語である。

新 生

第16条 「新生」という言葉は生物学的用語であって、それは、キリストにある新しい関係によって、実際に私たちは、新しいいのちと新しい霊的性質を持つ者とされ、それによってイエス・キリストを主と信じ、愛し、服従する生活が可能とされることを表している。信仰者は新生したものである。新しく創造されたものである。古いいのちは過ぎ去り、新しいいのちが始まっているのである。

子とされる

第17条 「子とされる」ということは、温かく、愛をもって快く受け入れられることを表わす子としての身分に関する用語である。それは、キリストにある新しい関係によって、私たちが罪とサタンの支配から解放され、神が、望まれる子となっていることを意味する。信仰者は、自分は神の子どもであるという聖霊の証しをもっている。

12.全き聖化

第18条 全き聖化とは、新生に続く聖霊のみわざであって、全く献身した信仰者がキリストの贖いの血を信じる信仰を働かせることにより、その瞬間に、すべての内に住む罪からきよめられ、奉仕のために力を与えられることである。このようにして生じた関係は、聖霊の証しにより確証され、信仰を服従によって保持される。全き聖化は、信仰者が心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして神を愛し、自分のように隣人を愛することを可能にし、またさらに、恵みに成長するように信者を整える。

13.回復

第19条 クリスチャンは、救い主、主イエスとの関係が深められることにより保たれる。しかし、罪の支配に戻ることはなくても、いのちの関係を保ちながら、聖霊を悲しませることもあり得る。聖霊を悲しませる時、聖霊による矯正を、謙虚に受け入れ、イエスのとりなしに信頼し、その関係を改めなければならない。
クリスチャンは、故意に罪を犯し、キリストとの関係を断つことができる。しかし、たとえそうであっても、神のみ前には悔い改めることにより、罪の赦しを受け、キリストとの関係を回復することができる。なぜなら、すべての罪が聖霊に逆らう罪ではなく、赦されない罪でもないからである。神の恵みは、真に悔い改める者にとって充分であり、またその力によって、生活が改善される。しかし、罪の赦しは、信仰者に罪を犯す自由も、また罪の結果から逃れる自由をも与えるものではない。
神は、教会に、愛の叱責・助言・および受容を通して、悔い改める信仰者を再起させる責任と権威とを与えておられる。

 

教 会

14.教会

第20条 教会は神によって創造され、神の民である。イエス・キリストはその主であり、またかしらである。聖霊は教会のいのちであり、力である。教会は神的であるが、人的であり、天的であるが、地上的であり、理想的であるが、不完全である。教会は一つの有機体であり、不変の制度ではない。教会は、キリストにある神の目的を達成するために存在する。教会は人びとの贖罪のために建てられている。キリストは教会を愛され、教会がきよく、汚れなくあるために、ご自身を与えられた。教会は、贖われた者と、贖う者との交わりであり、キリストの教えに従って神の言葉を伝え、聖礼典を執り行なう。「東京フリー・メソジスト教団」が目指すところは、イエス・キリストの教会の、地上においてあるべき姿を代表することである。それゆえ、私たちの教団に属する教会は、その会員の信仰と生活に関して明確な献身を要求する。その要求は、キリストに栄光を帰し、書かれた神の言葉に従うことを含んでいる。

15.礼拝に用いる言葉

第21条 神の言葉および初代教会の習慣に従って、公の礼拝・祈りおよび聖礼典の執行は、人々が理解できる言葉でなされる。宗教改革は、人々の日常の言葉を使用する原則を適用した。同じように使徒パウロも、礼拝において理解できる言葉を用いることを強調した。私たちは、これらの聖書的原則を明らかに破るようなことを容認することができない。

16.聖礼典

第22条 水によるバプテスマおよび聖餐式は、キリストによって命じられた教会の聖礼典である。聖礼典は、信仰による恵みの手段、クリスチャンの信仰告白のしるし、また私たちに対する神の恵み深い働きのしるしである。神は、聖礼典により、私たちのうちに働き、私たちの信仰を覚醒し、また、強める。

バプテスマ

第23条 水によるバプテスマは、私たちの主が命じられた教会の聖礼典である。バプテスマが意味するところは、信じる者に与えられるイエス・キリストの贖いの恩恵を受け入れることであり、イエス・キリストを救い主として信じる信仰を宣言するものである。
バプテスマは、割礼が古い契約のシンボルであったように、恵みの新しい契約のシンボルである。また私たちは、幼児が贖いの中に含まれていることを認めるゆえに、両親、また保護者が要請し、かつ、クリスチャンに必要な訓練を幼児に与えることを約束する時には、幼児にバプテスマを授けることができる。彼らは、教会員として受け入れられるに先立って、自ら誓約を確認しなければならない。

聖餐式

第24条 聖餐式は、キリストが死によってなされた贖いを表わす礼典である。正しく、敬虔に、信仰をもって聖餐を受ける者には、私たちが裂くパンはキリストのからだにあずかることであり、同じように、祝福の杯はキリストの血にあずかることである。聖餐はまた、クリスチャンが相互にもっている愛と一致のしるしである。
キリストは約束通り礼典において実際に臨在してくださる。しかし、そのからだは、天的また霊的な仕方でのみ与えられ、受け取られ、そして食される。パンとぶどう酒(液)に実質的な変化は起こらない。すなわち、パンとぶどう酒(液)とは、文字通りキリストのからだと血ではない。またキリストのからだと血とは、文字通りそのパンとぶどう酒(液)とともに臨在しているものではない。パンやぶどう酒(液)は決して礼拝の対象として考えられるべきではない。キリストのからだは、信仰によって受け入れられ、また食されるのである。

終 末

17.神の国

第25条 神の国は、クリスチャンに、そのわざと希望のもととなる非常に重要な聖書的主題である。イエスは神の国の現存を告げられた。神の国は、信じる者の心と生活の中に確立された神の支配として、今、実現される。
教会は、その祈り・模範・および福音の宣言を通して、神の国を建てるために、神によって制定された適切な機関である。
しかし、神の国はまた、未来のものであり、現存の秩序の上に、審判をもたらすキリストの再臨とかかわりのあるものである。キリストの敵は征服され、神の支配は確立される。物理的・倫理的な全宇宙更新が起こり、贖われた者の希望は完全に実現する。

18.キリストの再臨

第26条 キリストの再臨は確実であり、またどのような瞬間にでも起こり得る。しかし、その時期については私たちに知らされていない。
再臨の時、キリストは、すべての悪に対しての最後の勝利に関するすべての預言を成就される。それに対する信仰者の応答は、喜んで期待し、目を覚し、備えをし、また勤勉であることである。

19.復活

第27条 正しい者にも、正しくない者にも、死からのからだの復活がある。善を行った人びとはいのちを受けるために、悪を行った人びとは審判を受けるためによみがえる。復活したからだは霊的なからだではあるが、人格は同一で、見分けることができる。キリストの復活は、キリストにある人々がいのちに復活することの保証である。

20.審判

第28条 神は、福音によって、また人びとのこの世における行為に従って、義をもって世界をさばく日を定められた。
21.最後の運命
第29条 人間の永遠の運命は、神の任意の意志によってではなく、神の恵みと人間の応答によって定められる。神を信じ、イエスを救い主および主として従順に従う人びとには、永遠の栄光ある天国とキリストの臨在の祝福がある。しかし、最後まで悔い改めない者には、永遠の苦しみと神からの離別と地獄とがある。

第30条 「東京フリー・メソジスト教団」の教理は、聖書に基づき、聖書全体の文脈から引き出されている。以下の引用聖句は、主題に関係ある適切な聖句である。これらの聖句は、聖書の順序に従って挙げられているが、すべてを挙げ尽くしたものではない。

1.聖なる三位一体
創世記1:1~2, 出エジプト記3:13~15, 申命記6:4, マタイ28:19, ヨハネ1:1~3, 5:19~23, 8:58, 14:9~11, 15:26, 16:13~15, Ⅱコリント13:14

2.子なる神-受肉
マタイ1:21, 20:28, 26:27~28, ルカ1:35, 19:10, ヨハネ1:1, 1:10, 1:14, Ⅱコリント5:18~19, ピリピ2:5~8, ヘブル2:17, 9:14~15
子なる神-復活と昇天
マタイ25:31~32, ルカ24:1~7, 24:39, ヨハネ20:19, 使徒1:9~11, 2:24, ローマ8:33~34, Ⅱコリント5:10, ピリピ2:9~11, ヘブル1:1~4

3.聖霊-その人格
マタイ28:19, ヨハネ4:24, 14:16~17, 14:26, 15:26, 16:13~15
聖霊-救いにおける働き
ヨハネ16:7~8, 使徒15:8~9, ローマ8:9, 8:14~16, Ⅰコリント3:16, Ⅱコリント3:17~18, ガラテヤ4:6
聖霊-教会との関係
使徒5:3~4, ローマ8:14, Ⅰコリント12:4~7,Ⅱペテロ1:21

聖書

4.権威
申命記4:2, 28:9, 詩篇19:7~11, ヨハネ14:26, 17:17, ローマ15:4, Ⅱテモテ3:14~17, ヘブル4:12, ヤコブ1:21

5.旧約聖書の権威
マタイ5:17~18, ルカ10:25~28, ヨハネ5:39, 5:46~47, 使徒10:43, ガラテヤ5:3~4, Ⅰペテロ1:10~12

6.新約聖書
マタイ24:35, マルコ8:38, ヨハネ14:24, ヘブル2:1~4, Ⅱペテロ1:16~21, Ⅰヨハネ2:2~6, 黙示録21:5, 22:19

人間

7.人間-自由な道徳的人格
創世記1:27, 詩篇51:5, 130:3, ローマ5:17~19, エペソ2:8~10

8.生活と愛の律法
マタイ22:35~40, ヨハネ15:17, ガラテヤ3:28, Ⅰヨハネ4:19~21

9.善い行い
マタイ5:16, 7:16~20, ローマ3:27~28, エペソ2:10, Ⅱテモテ1:8~9, テトス3:5

救い

10.キリストのいけにえ
ルカ24:46~48, ヨハネ3:16, 使徒4:12, ローマ5:8~11, ガラテヤ2:16, 3:2~3, エペソ1:7~8, 2:13, ヘブル9:11~14, 9:25~26, 10:8~14

11.キリストにある新しいいのち
ヨハネ1:12~13, 3:3~8, 使徒13:38~39, ローマ8:15~17, エペソ2:8~9, コロサイ3:9~10

義認

詩篇32:1~2, 使徒10:43, ローマ3:21~26, 3:28, 4:2~5, 5:8~9, Ⅰコリント6:11, ピリピ3:9

新生

エゼキエル36:26~27, ヨハネ5:24, ローマ6:4, Ⅱコリント5:17, エペソ4:22~24, コロサイ3:9~10, テトス3:4~5,Ⅰペテロ1:23

子とされること

ローマ8:15~17, ガラテヤ4:4~7, エペソ1:5~6, Ⅰヨハネ3:1~3

12.全き聖化
レビ20:7~8, ヨハネ14:16~17, 17:19, 使徒1:8, 2:4, 15:8~9, ローマ5:3~5, 8:12~17, 12:1~2, Ⅰコリント6:11, 12:4~11, ガラテヤ5:22~25, エペソ4:22~24, Ⅰテサロニケ4:7, 5:23~24, Ⅱテサロニケ2:13, ヘブル10:14

13.回復
マタイ12:31~32, 18:21~22, ローマ6:1~2, ガラテヤ6:1, Ⅰヨハネ1:9, 2:1~2, 5:16~17, 黙示録2:5, 3:19~20

教会

14.教会
マタイ16:15~18, 18:17, 使徒2:41~47, 9:31, 12:5, 14:23~26, 15:22, 20:28, Ⅰコリント1:2, 11:23, 12:28, 16:1, エペソ1:22~23, 2:19~22, 3:9~10, 5:22~23, コロサイ1:18, Ⅰテモテ3:14~15

15.礼拝に用いる用語
ネヘミヤ8:5, 8:6, 8:8, マタイ6:7, Ⅰコリント14:6~9

16.聖礼典
マタイ26:26~29, 28:19, 使徒22:16, ローマ4:11, Ⅰコリント10:16~17, 11:23~26, ガラテヤ3:27

バプテスマ

使徒2:38, 2:41, 8:12~17, 9:18, 16:33, 18:8, 19:5, ヨハネ3:5, Ⅰコリント12:13, ガラテヤ3:27~29, コロサイ2:11~12, テトス3:5

聖餐式

マルコ14:22~24, ヨハネ6:53~58, 使徒2:46, Ⅰコリント5:7~8, 10:16, 11:20, 11:23~29

終末

17.神の国
マタイ6:10, 6:19~20, 24:14, 使徒1:8, ローマ8:19~23, Ⅰコリント15:20~25, ピリピ2:9~10, Ⅰテサロニケ4:15~17, Ⅱテサロニケ1:5~12, Ⅱペテロ3:3~10, 黙示録14:6, 21:3~8, 22:1~5, 22:17

18.キリストの再臨
マタイ24:1~51, 26:64, マルコ13:26~27, ルカ17:26~37, ヨハネ14:1~3, 使徒1:9~11, Ⅰテサロニケ4:13~18, テトス2:11~14, ヘブル9:27~28, 黙示録1:7, 19:11~16, 22:6~7, 22:12, 22:20

19.復活
ヨハネ5:28~29, Ⅰコリント15:20, 15:51~57, Ⅱコリント4:13~14

20.審判
マタイ25:31~46, ルカ11:31~32, 使徒10:42, 17:31, ローマ2:15~16, 14:10~11, Ⅱコリント5:6~10, ヘブル9:27~28, 10:26~31, Ⅱペテロ3:7

21.最後の運命
マルコ9:42~48, ヨハネ14:3, ヘブル2:1~3, 黙示録20:11~15, 21:22~27